習慣アニメ批評::弁当
従姉妹サイコー!!やっぱメガネ巨乳は絶対正義やったんや!
習慣アニメ批評::真剣恋
今までで一番面白い♪ようやく始まったな。
習慣アニメ批評::ホライゾン
ようやく始まったみたいだけど…さすがにもう飽きたので切るね(笑)。
習慣アニメ批評::ラストおかま
ん~、気持ちは分るけど。子供皇帝は最終回まで落ちとして取っておくべき伏線でわ?このアニメ、概ね主人公側の描き方は及第点なんだけど。敵方の方がパッとしないというか、やっちゃあイカン事ばかりやってる様な印象です。
いわゆる“ジブリの法則(笑)”に例えるなら、女の子(15歳以下で処女)は無条件で助けるべき存在であり、そこに主人公側が悩む余地はありません。フラクタルを始めとする「ジブリ擬き」が例外なく失敗するのは、主人公側に「女の子を助けるべき理由」を迫る事にあります。主人公の疑問は、即ち視聴者側の疑問となり、それは作品鑑賞していく上での障害にしかならないので、TV枠で放送される場合は序盤で早々に視聴者から切られます。
この第一法則に基づけば、まあファムさんが同性と言え、純真無垢の象徴である“お姫様”を助ける事に理屈付けは必要無いので。視聴者は純粋に話の内容に集中して鑑賞出来ます。しかし同時に憎むべき象徴である敵方に同様の存在、この場合は幼い皇帝陛下が登場してしまうと。視聴者はこの存在を憎んで良い物かどうか迷う事になるので、話が続く間はずっとストレスが溜まる事になります。
例えば『宇宙戦艦ヤマト』の落ちは、地球側が憎い侵略者と思っていたガミラス人が、実は自分たち地球人と同じ人型の生物であったという事に、主人公の古代守が衝撃を受け、侵略戦争に勝って生き残ったにも関わらず涙を流して後悔するシーンがあります。SFアニメの落ちとしては良いシーンだと思いますが。実はこのシーンは重大な失敗があって、TVアニメ版のヤマトでは放送開始第1話の時点で既に、ガミラス人が地球人と同じ人型の知的生命体である事は視聴者には丸分かりになっています。
なので最終回になっていきなり「ガミラス人も我々、地球人と同じ人間だったんだ!」と涙を流されても、視聴者としては「え?」となります。確かにアニメ内設定では最終回で初めて知る事実であっても、視聴者にしてみれば1年間付き合ってきた常識なので、今更そんな事言われても困ります。推理物で言えばお話の最初に「犯人はヤス!」と視聴者に知らされている様な物で。それからいくら名推理を展開してドラマを引っ張ったとしても、最終回で分かり切った答えを改めてドヤ顔で聞かされても気まずくなるだけです。絶対にやっていけない事なのです。
お話に置いて敵方は絶対的悪役でなくてはならない。重要な第二法則です。例によって“ジブリの法則(笑)”に例えるなら、か弱い“ヒロインの頭を土足で力任せに踏み付ける”悪役がその象徴となります。カリオストロ伯爵はクラリスの頭を踏み付け、ムスカ大佐はシータの頭を踏み付けます。そしてその間、ヒロインたちは何も言わずに唇を嚙んで痛みと屈辱に耐え忍びます。
これは言うなれば「悪役のヒロイン陵辱シーン」であり、何かと規制の多いアニメ映画に於ける「レイプシーンの代替」でもあります(後、あまりに過激な暴力シーンは観客をドン引きさせるので、それを婉曲的表現で回避する狙いもある)。この「頭踏み踏みシーン」があるおかげで、視聴者は深層意識に悪役を憎んでも良いんだと言う事を刷り込まれ、その後はすんなりと悪役の処刑シーンを愉しむ事が出来るのです。悪役が非道であればあるほど、最後の処刑シーンでの視聴者のカタルシスがより増大し爽快感を得る事が出来るのです。
ところがここに「敵方の親玉も幼い子供」という事になったら?またもや視聴者は混乱させられます。作品内でいくら主義主張を語ろうとも、人間は見た目が10割!幼い子供を憎む対象とする事は心理的に出来ないので、こう言う展開設定の作品を見せられた視聴者は非常にストレスが溜まります。いわゆるやってはいけない「犯人はヤス!」状態になるのです。
しかし敢えて禁じ手と分った上で、この悪手をやる場合があります。またまた推理物に例えますと『コロンボ』や『古畑任三郎』などです。これらの作品はドラマ冒頭から犯人が顔出しで、その犯行の一部始終が描かれます。なのでドラマとしては、もう犯人が誰かを推理する楽しみは初っ端で消失します。ではこれらの作品はもう見るべき価値が無くなるのかと言えばそうでは無く。これは如何にして犯人が刑事の捜査を逃げ切るか?~という部分を愉しむ、一種のピカレスク小説の体を模している物であり、名目上は主人公は名刑事のコロンボや古畑なのだけれど、実際に視聴者側が感情移入して見ているのは悪役である犯人側の目線となります(それでも結局は捕まるんですが…)。
この場合、さらに視聴者の感情移入し易い様に、犯行の動機をより犯人側に立った道徳的な物にする事が多々あります。まあ昭和的な感覚で言えば、病気の妹の手術費用のために強盗を犯してしまった兄~などという設定です。ただし決してやってはいけない犯罪行為がただ一つ、それが“性犯罪(レイプ)”です。どんなに魅力溢れるキャラクターだったとしても、性犯罪者のレッテルを貼られた途端にその魅力は半減し、あらゆる憎しみの対象となってしまいます。前段の“ジブリの第二法則(笑)”に基づくなら、ジブリ作品の悪役がレイプの代替行為を行う事によって自らの存在を徹底的に貶めて、視聴者が安心して罵詈雑言を浴びせかける対象とする事が出来るのです。
で、顧みるにこの作品。本来であれば憎しみの対象でなくてはならない敵役のポジションに、幼い少年?皇帝が位置しています。人は見た目でしかキャラクターを判断出来ないので、この作品には悪役不在と言う事になってしまい、視聴者は非常に感情移入し辛い作品となります。この様な“変化球”を敢えて放り投げる場合、取るべき手法は2つしかありません。
1つはヤマト路線の正しいパターン。つまり「幼い幼女皇帝」を作品の落ちとして、最後まで視聴者に隠し通して置くやり方です。で、ファムたち主人公側が連邦を打ち破った時に初めてその真実を知るというパターンです。もちろん言うまでも無く、真実を知るタイミングは視聴者も一緒になります。この場合は主人公の落胆や戸惑いそのものが視聴者の共感覚となり、その真実を知った後の主人公の行動そのものが視聴者のカタルシスとなっていきます。
もう1つが前述の「古畑コロンボ・パターン」です。敢えて伏線となるべき事柄を最初に視聴者にカミングアウトして置き、第三者的視点からキャラクターたちの葛藤や行動を観察させる事によって、いわゆる“神の視点”を愉しむパターンです。この作品の場合なら、主人公側のシシー様と幼女皇帝が、いつ対面するのか?互いに同じ様な動機と正義があった事にいつ気付くのか?~といった事が主な焦点となり、視聴者はそれをハラハラしながら見守る保護者視点となります。
ただ…投げられた変化球を受け取るキャッチャー役になるのは視聴者になるので、あまりにも落差が激しすぎる変化球はミットに入りきれずに落球してしまう事になります。その場合、当然ながら視聴者は自分の捕球技術が未熟とは考えずに「なんて酷いボールを投げるんだ!」と怒るのが通例です。そもそも変化球を投げて来るなんて聞いてないのだから当たり前と言えば当たり前です。なので基本的には「変化球モノ」は例外なく失敗します。
たまに変化球モノでの成功事例が喧伝に語られますが。それは事前に大きく変化球モノと告知して置いて、その実はオーソドックスである事がほとんどなので。やはり変化球モノは例外なく失敗すると考えるのが妥当なのです(ボールの軌道が大きく変化してる様に見せかけて、ミットに入る瞬間には常にストライクゾーンに収まっている)。代表的な例が『まどか☆マギカ』であり、真っ直ぐだと思わせたボールがミット直前でビンボールになったのが『フラクタル』です。
さて…この『ラストエグザイル -銀翼のファム-』という作品。これから何処へ向かうのか、自分としてはまだまだ興味津々です。確率論から言えばほとんどもう失敗作の範疇に入り始めてるのですが(笑)。第3話ラストでの、シシー様が髪を切るシーンなどは、今までの世間知らずの自分に別れを告げて、新たに革命のリーダーとして覚悟を決めるシシー様の心理を、言葉を一切使わずに象徴的に表す良いシーン演出だと思います(そこへ至る過程の描き方も良かった)。
冒頭にも述べましたが、この作品は主人公サイドの描き方はほぼ満点と言って良いのですが。逆に悪役、つまり連邦側の人たちの描き方が全くと言って良いほど成ってません。直接的にファムたちと刃を交える可能性が非常に高い、片目総統お抱えの用心棒?がオカマ野郎だし。幼女皇帝を取り巻く側近たちも、優しそうなお姉さんだったり、強面だけど子供好きのおっさんだったり、一番悪そうに見えないといけない片目総統でさえ、一本芯の通った忠義の臣下という風に描かれてます。つまり悪い人が誰も居ない世界!
まあ雰囲気からして黒幕は片目総統で、良くある「セカイが、セカイが~!」系の人だと言う事はもうバレバレなんですが(笑)。だったら尚のこと最初から隠す必要など無く、第1話から全力で「うひひひ!トランの奴らは皆殺しだ~ッ!!王女達は捕まえてハラワタ引きずり出せ~ッ!!ひゃッはー!!」~とかやった方が良いんです。何でこうもスカしたキャラにしてしまったのか。それは用心棒のオカマ野郎にも全く同じ事が言えます。対外的には戦争キチガイの狂人っぷりを見せつつ、皇帝陛下の前では猫を被って紳士然と振る舞う~こういうのも“ジブリ第三法則(笑)”で言う所の「悪役は敬語で喋るべし」という法則に通じます。
と言う訳で…第3話終了:58点